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「ワールド・クラスルーム 現代アートの国語・算数・理科・社会」

ルーブル美術館展」の感動が冷めやらぬうち、
森美術館現代アート
「ワールド・クラスルーム 現代アート
国語・算数・理科・社会」を見に行く。

今宵は、その予習。

地元の図書館に行こうとしていたところ、
パソコンのタッチ音を出してはダメ
という厳しめルールのため、
今日は、お洒落な夜カフェにてブログ書き。


今回の美術展は現代アートである。
そこで、美術展そのものではなく、
先に現代アートについて考えてみようと思う。


岡田斗司夫youtubeを見ると、
現代アートは軽蔑すべきものとされている。

理由は大きく以下の三つ。

①技術の発展によるアートの終焉:

写真や映画や印刷技術の出現によって、
伝統的なアート(絵画や彫刻など)の役割
が終わっている。

それは、それらの技術が、
従来アートが担っていた「現実を表現する」
役割を奪い、より効率的で正確な方法で
その役割を果たしているからだ。

②アートの有難がりと受け手の品性:

アートという概念やそれを有難がる
受け手の「貧乏根性」は軽蔑すべきものである。

人々がアートを尊敬することは、
「尊敬すべきでないものを無意味に
尊敬する」行為であり、
その行為は人間の品性の低さや
コンプレックスを反映していると言えるから。

③アートの定義と価値観の問題:

20世紀以降のアートが「アート」であると
認識されることは問題である。

アートとは個々の表現者や作品が持つ
独自性や新規性、
そしてそれがどのように社会や文化に
影響を与えるかが重要である。

しかし、現代アートの中には
これらの価値を見出せない作品が多いからだ。


以上の理由から、
岡田斗司夫さんは現代アートを軽蔑している。
(ただし、彼自身も指摘しているように、
これは一部のアート作品やアーティストに
対する否定ではなく、
現代アートという広範な概念と
その受け手に対する彼自身の見解である)


さて、それでは彼が正しいと
言えるかどうかを順に検証してみたい。


①「写真がアート作品の代替となりえるか?」だが、
19世紀以前に、古くから写実以上に古典主義、
印象派、ロマン派などは
目に見えないものを描こうとしてきた。

どういった手法にしても、
見たまま以上に人が
価値を見出す表現には
既に存在意義があるように思う。


②「アートが商業主義、権威主義となることは、
恥ずべきことか?」だが、
こちらも19世紀以前の西洋美術史を紐解けば、
各時代に商業と権威が密接に関連していたことが
見て取れるし、それなくして
芸術の進歩はないと思う。


③最後に、
現代アートに独自性・新規性があるか?」
これは、非常に厄介な言説である。

芸術全般において新規性や独自性は
重要な要素である。

それは、アートが社会や文化に対して
何か新しい視点を提供し、
または存在しなかった感情や思考を
引き起こす手段であるからだ。

新規性があるということは、
それがまだ誰も試みたことがない
全く新しい方法で
何かを表現しているということを意味する。

そして、独自性があるとは、その作品や表現が
特定のアーティスト特有の
スタイルや視点を反映していることを指す。


厄介な部分は、私自身が、
現代アートをそれ程知らなく、
このあたり、本当なのかを現時点で
検証できない点にある。

まあ、その探求の為、美術展に行くわけだが。。


少なくとも渋谷のワタリウム美術館で見た
「疾走するクマ」という
現代アート作品を見た衝撃は、
今だに私の心に刻まれているし、
星の数ほどある作品の一部には
心を動かすものがあることは間違いない。


芸術作品が傑作となるには、
時間というフィルターを通す必要があるが、
現代アートは同時代のものであるため、
そのフィルターを通すことができない。

そこで陳腐なものと、
そうでないものとを区別することがされておらず、
多くの作品がつまらないと思う可能性は高いだろう。

だからこそ、その中でお気に入りの作品を
見出すことができたら、
非常に価値がある経験になるのではないだろうか。